花の行方 4
 

「だってあんなにかわいがってるんだもん、瞳子がいなくなったら泰衡さんだってさびしいはずだよ?
 それをさも真剣な顔で瞳子を京にやるなんて言うから、私もあわてちゃって。本当はそんな気なんてないくせに、泰衡さんって素直じゃないよね……って、これは昔からそうだっけ」
 今さらながらあたりまえのことに気づいたという調子である。銀も目を瞠る思いでうなずいた。そうなのだ。どんな理由を並べるよりも、泰衡自身が瞳子を手元から離したくないはずなのだ。
 駆け引きとは対極にある場所から彼を求めて手を伸ばす、純な幼子。京からどのような話が来ようと泰衡の心は変わらなかっただろう。しかし両親である銀や望美に話をすると決めた時点でふたりの反応も当然見越していたはずで、それでも望美の反発を誘うのがわかっている理屈をかざして話を始めるあたり、いかにも彼らしいというべきか。
 ……泰衡がかいま見せる甘さ、政略を越えたところで示す人の情が銀には好ましいものに思える。相変わらず表面上は他人を拒絶するがごとく厳しく無愛想で、皮肉めいた物言いに満ちているものの、かつての泰衡に比べ、ずいぶんとおだやかさ、柔軟さを増したようにも感じられる。
 泰衡のそうした変化を呼んだのは、平穏に続く日々の積み重なりだったり、泰衡のそばで率直に怒ったり笑ったり、時には命を賭けて人の想いや願いを守ろうとしてきた望美の存在だったり、そして彼に向けられる無垢な子どもの笑顔だったりするのだろう。
 そしてこのことは彼の器量を損なうものではなく、かえって人間としての豊かな実りに繋がっていくのではないか。泰衡にとって、自身のその甘さは自分でも許し難いものであるかもしれないが――。
 今後どんな状況が訪れようと、きっと泰衡は瞳子をただの駒として扱うようなことなどしない……。さいわい国内は平和で、瞳子の京入りを急く必然性はない。頼朝の姫を入内させようと動いているという鎌倉を刺激せぬ意味でも、泰衡の判断は正しいと思える。
「……私は、大きくなったら伴侶は瞳子自身に選ばせたいと思うのですよ。まつりごとなど関係なく、愛し愛された相手と結ばれるのが何よりの幸せ。瞳子が想う相手が誰であろうと、その想いをかなえてやれるよう力を尽くしたいものですが」
 銀はしみじみとした感興を声にこめた。
「恋は理屈や予想どおりになど行かぬもの。けれど愛した人に想いが通じた喜びは何にも勝る……。昔、あなたをこの手に抱くまで、私もどれほどやきもきさせられたことか。あなたの周りにはいつも多くの方々がいて……」
「ええっ、銀だってしょっちゅう女の人たちに囲まれてて、心配させられたのは私の方だもん」
「何をおっしゃいます。私の目も心も、あなただけしか映していなかったことをよくご存知でしょう?
 ……でも今、あなたはこうして私の隣にいてくださる」
 回想に少し頬を染めた望美の手を取り、銀は細い指に口づけた。
「あなたは多くのものを私に与えてくださった。私には過ぎるほどのものを……。願わくは瞳子も私のように、心から愛する人にめぐりあい、幸福な日々を過ごせるように」
 ひたと見つめてくる紫の瞳に、満ちる潮のように心が深く満たされていく。時空を超えてたどりついた、ただひとりの運命の人……。
「けれども望美さん、少々本音を申しますと、瞳子をいつまでも手元から離したくない気もするのですよ。畏れ多くも真実、帝に望まれたとしましてもね。どうしてもというのなら、相手については私なりの条件があるのです」
「え?」
「まずは誰よりも瞳子を愛してくれること。常に思いやり深く誠を尽くし、決して悲しませたりなどしないこと。また子を慈しみ、家族を大事にするよき父、よき夫であること。不実などもってのほかです。
 高い地位を持っていたり分限者であったりする必要はございませんが、自分の働きで家族を養え、経済的な心配などはさせないのは当然かと。愛しい女性が美しく装う姿を見るのは男にとってたいそう張りのあるもの。装わせる余裕もないようでは失格でしょう。
 それに物質的なことはさておくとしましても、心の貧しい男であっては困ります。度量大きく情け深く、そして何か事ある時は、命を賭けてそれを成すほどの潔さのある男がよろしい。何より、愛する人を守れるだけの力を持っていなければ……。
 ああそれから、できれば多少の管弦の嗜みなども――」
 滔々と続けていた銀は、ぽかんと口を開けている望美に気づくとあわてて口をつぐんだ。
「失礼しました。これは……あくまでたとえの話ですよ。たとえの」
 銀にしてはめずらしくうろたえている様子だ。
「とにかく、親として瞳子に幸せになってほしいという気持ちに変わりはありませんので」
「う、うん、わかってる。もちろん私も同じだよ」
 銀がほっとした顔になる。歩きながら望美は夫の端整な横顔をちらりと見やった。先ほどまでの饒舌さが嘘のようにいつもの静けさを取り戻しているが、耳にほんの少し赤みが残っているように見えるのは気のせいか?
(泰衡さんの前では冷静だったけど、銀も本当は、瞳子はお嫁になんてやりませんって言いたかったんじゃないのかな)
 望美が泰衡相手にわーわー叫んでいたので、銀は言う機会を逸してしまったのかもしれないと反省はしたものの、こと娘の伴侶に関しては銀にも大いにこだわりがありそうだ。いつもおだやかで鷹揚な夫の新たな一面を発見した思いである。
 それでも銀の立派な点は、口に出した条件は自身がきちんとクリアしているところだが、そんな彼だからこそ瞳子を望む男性にはかなり厳格に点数をつけそうというのは杞憂だろうか。実際には、あと何年か後の話ではあるが。
(お父さんって、娘の彼氏に厳しいっていうの本当だったんだ……)
 そういえば望美の父親も昔、望美は絶対に嫁にやらんとか何とか、そんなことを言っていたような……。
(家に帰らなくてごめんね、お父さん。でも私、すごく幸せだから。銀は最高の男性(ひと)だし、子どもたちもとってもかわいいの。一度会わせてあげたいな)
 二度と会えないかもしれない父親の顔が心をよぎり、つーんと鼻の奥が痛くなって思わず鼻をくすんとすすった。
「どうしました、お風邪でも?」 
 気遣う銀に、望美はあわてて手を振った。
「ちょっとお父さんのこと思い出したの。でも平気だよ」
「望美さん……」
「ああ、今日はびっくりしちゃったね。帰ったら甘葛(あまづら)でも飲みたいな」
「それならよいものがありますよ。とてもいい香りの茶を手に入れたのです。お好きでしょう?」
「ほんと? うれしいな」
 奥州の北端の十三湊(とさみなと)港と大陸の間には京を通さない独自の貿易経路があり、さまざまなめずらしい物品が平泉に流入してくる。貴重品の茶もそのひとつだった。愁いを払った輝く笑顔に銀は微笑む。
「茶は身体によいと聞きます。おなかの子にも何かよい影響があるでしょうか?」
 どうだったかなと首をひねる妻を、彼は軽く抱き寄せた。あらがうことなく望美は素直に身を預ける。銀はそっと口にした。
「愛しさゆえにあなたをこの世界にお引き留めしてしまった……けれど自分が娘の親になってみれば、あなたのお父上への申し訳なさがいっそう身に沁みてまいります。いつかお父上にお目にかかり、私たちの愛(めぐ)し子をお見せできたらよいのですが」
「うん。おじいちゃんになったよってびっくりさせたい。幸せに暮らしていますって伝えたいよ……」
 さらさらした望美の髪を長い指がいとおしげに梳き、ふたりはしばらくふたりだけの時間にひたっていた。銀は望美のおなかに手を触れた。
「……泰衡様がおっしゃったからということではありませんが、この子のあとにもまた、子が授かったらうれしい気がしてきました」
 言いつつ小さく吐息をついた。
「すみません、私はたいそうなわがままを申し上げているのでしょうね。おなかの中で十月も子を養い、そして産みの苦しみ、それがどれほど大変なことか少しはわかっているつもりでおりますのに、あなたとの愛の証がもっともっと欲しいと願ってしまう」
「ううん。銀との赤ちゃんが生まれるのは私もとてもうれしいの。何人でも」
「それはよかった」
 銀はいたずらっぽくささやいた。
「産むのを代わってさしあげることはさすがに無理ですが、作る手伝いならば、いくらでも……。この子が生まれたらまた、心をこめてお手伝いさせていただきましょう」
「も、もう、銀ったら」
 望美は顔を赤らめた。何年経っても銀が望美に向ける情熱と細やかさは変わらない。すでによく馴染んで知らないところもないはずの互いの肌なのに、抱き合う夜はいつも新鮮でめくるめく歓びをもたらしてくれる。それどころか子どもを産んでから快楽がいっそう深く肉体に響いてくるような気がして望美は驚いていた。そんな妻の耳に銀は甘く吹きこんだ。
「愛しています、望美さん……」
 おとがいを指で持ち上げられ夢見心地に目を閉じた望美は、ふいに袖を下方に引かれた。
「ん?」
「とうさま、かあさま、おうち、はいらないの?」
 不思議そうに見上げる瞳にあわてて見回すと、館の門はすぐそこだ。通りにさいわい人影はないが、供の者たちは困った様子で向こうで目を反らしている。ああ、もうと恥ずかしがる望美の隣で銀は苦笑した。もともと彼は望美に愛を告げるのにあまり人目を気にしたことなどないとはいえ、今は少々うっかりしていた。さすがにここでこのまま続きはできない。素直に館に入ったほうがよさそうだ。
 娘と手を繋ごうとして銀は、小さな手が持つ小さな花束に気がついた。瞳子が道々摘んできた花だった。
「綺麗ですね、瞳子は花が好きなのですね」
「うん、すき。の……のはながすき、なの」
 慣れない言葉を思い出し思い出し言っているらしい様子に銀は膝をついてかがみこんだ。娘と視線の高さを合わせて尋ねる。
「野の花、ですか?」
 瞳子がうなずく。幼子が言うには少々違和感のある言い回し、いつ覚えたのかと銀はわずかにいぶかしんだが、誰かが口にしたのを耳に留めたのだろうと思った。言うことも行動も毎日のように成長している我が子なのだ。彼は想いのこもった声で同意した。
「私も野に咲く花は大好きですよ。愛らしく可憐で、いつもいっしょうけんめいに咲いている……まるで瞳子や望美さんのようですから」
「瞳子、あとでいっしょにお花を飾ろうね」
 少し照れたような望美が声をかける。銀が望美に初めて出会ったころ、彼女を野の花にたとえて泰衡に話したということは知っていた。彼の脳裏にその想い出がよみがえっているに違いないと思うとちょっとこそばゆい。
 やわらかな笑みを浮かべて立ち上がった銀は娘の手を取り、瞳子を真ん中に、三人は手を繋いで館の中に入っていった。
 ……瞳子が「野の花が好き」と言ったのは、以前、泰衡がぽつりと――しかし幼い耳にすらその声が刻まれるほどに、いつもの彼とはひどく違う雰囲気で――野の花が好きだと言ったためだと知ったなら、ふたりともずいぶんと驚いたことだろう。
 あの時泰衡の心にあったものが何だったのか、この世に生を受けてほんの数年の幼児に理解できようはずもなく……だが彼の言葉にこめられたやさしくも遠い響きは、瞳子自身も意識しないまま、あどけない心の奥深い場所に静かに埋(うず)められたのだった。



 ――やがて北の地の花と謳われ、運命的な愛に身を投じることになる娘のさだめの行方を、望美も銀も今は知る由もない―――







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